昨日こんなニュースを読みまして。 「モデルは物じゃない」水原希子が撮影の無理強いを告白

KaoRiさんのブログ「その知識、本当に正しいですか?」 僕は荒木経惟さんの書籍を読んだことがあって、その中で「写真を撮るという事は、被写体を愛する事だ」という写真理論が書いてありました。(詳しい言い回しは忘れてしまったので、言い方は微妙に違うかもしれません)

これは僕の写真哲学の一つとなってもいて、割と尊敬する写真家の一人として認知していたのですが、上記のニュースをみて結構なショックを受けた、というお話です。

一方の主張のみをインターネットを介して読んだだけなので、真実がどうなのか、経緯やディテールがどうなっているのかはわかりませんが、被写体がこれだけ追い詰められて、自身の辛い経験として残ってしまった事は事実で、その責任はどうしたってカメラマンから離れる事はないと思うのです。

自殺まで考えた被写体の心境や表情の変化を、超ベテランのカメラマンが全く気づかない、なんて事がある訳もなく…

ましてやその相手が「ミューズ」という、16年にもわたる被写体パートナーだったとの事。なんだか色んな視点でやるせない気持ちになる、とても残念なニュースだなと思いました。

写真を撮る事でこれだけ人を不幸にできるのか。

「モデルを守れるのはカメラマンだけ」これは以前受けた写真セミナーでの先生の言葉です。ふと反面的に思い出しました。

またニュースの反応を見てみると、否定的な意見が一定数ある事もショックでした。芸術ってそういうものとか、それを禁止していくとと表現の自由が〜とか、それがモデルの仕事だとか、契約が〜事務所が〜表現だから〜商業だから〜天才だから〜作風だから〜とか、そんな話じゃない。

どんなに芸術としての価値があっても、どんなに表現として貴重であっても被写体が不幸になる写真は撮るべきじゃ無いと思うし、ましてや世に公開すべきではない。「無断」「知らない」「○○が勝手に」なんて論外。

カメラマンとしての、作者としての当然の責務だ。

もちろん撮影の仕事を実際にして行く中で被写体の幸せを考えて撮影をしていても、結果的に逆に作用する事もあるのですが…

それでも被写体が笑顔になる事を目標としながら、シャッターを切る事がカメラマンとして大切だと思うのです。被写体が人でも花でもモノでも、その素敵な部分を引き出してカタチにする。そして写真を見て幸せになってもらう。それが本当の意味で被写体を愛するってことなんじゃないかな。 最近SNSをに上がってくる写真を見ていても思うのです。カメラマンとしての意図や、やりたい事はわかるんだけど、これってモデルさんは嬉しいのかな?っていう写真が多いなと。

そんな風に思う事が重なったので、久しぶりにブログ文章にしてみました。まとまりのない文ですみません。。 僕自身も、周りのカメラマンの皆さんも、モデルさんも、どうか幸せの連鎖の中で生きられますように。

そして僕自身が、そういう写真を撮り続けていられますように。気を引き締めて。


2018.12.28追記

関連記事をいろいろ読んでいた中で、自分になかった視点や、知らなかった情報を目にしました。
これはきっとこの件に関して考えるのに必要な情報だろうと思ったので、下記にてリンクを追記しておきます。

飯沢耕太郎さんのブログより(荒木さんの写真のバックグラウンドについて)
僕に全くない視点や知識からなる見解で、理解できなかった部分を理解するのにとても参考になりました。

沖本 尚志さんのFBより 「KaoRi SEX Diary」の担当編集者で、荒木さんとKaoRiさんを知る当事者のお一人。 とても正直で誠意を感じる言葉だなと感じました。

前回のポストで荒木経惟さんのことを書いたのにすごく残念ですが。。昨晩、荒木さんのモデルだったKaoRiさんの告白記を読んだ。https://note.mu/kaori_la_danse/n/nb0b7c2a59b65衝撃だった。…

沖本 尚志さんの投稿 2018年4月9日月曜日

戸田昌子さんの考察ツイッターまとめ
https://togetter.com/li/1216833